ブログの題名からしてある小説家を意識してのものだということは多くの人がご承知のことと思う。また今回の記事のタイトルも、その小説家が少年のころに転校することになった進学校の机に彫りつけた文言のもじりであることに思い当たる人もいるだろう。

匿名ブログは私の性格に合わない。まどろこしい。

以前は「公的な立場だから」と実名を出されて匿名ブログに卑劣な中傷・誹謗をされたが、今はまったくの「私人」なので、そのような難癖をつけられることもなかろう。

実名のブログを復活させようかとも考えているが、果たして今のこの村にその値打ちがあるのかどうか。

ほとんどが匿名で好き勝手なことを書いている。どこの誰だとわかる場合でもそれはみんなが知らないことにしている。それはそれでよいのだが、このブログ村で始まった私の実名攻撃については、謝罪の言葉もない。

まさに人間性の問題である。むしろ再び同じようなことを記事にしている。

教育に関する問題を広く社会問題とするためには、個々の例もこの村でいくつか知ることができるように、なかなか難しく、一般論になれば、個の問題は埋没し、個の問題を強調すれば、醜聞のように取り扱われることにもなりかねない。

識者、という人たちがいて何か発言すれば、それなりに反響もあるが、当たり障りのなことを言っていたり、現実に苦しんでいる子どもたちを具体的に救うものではなかったり、と大したこともない。

学校教育なんて、しょせんこんなもんだ、とあきらめることが蔓延し、今の教育も10年後には「失敗」と無責任に方向転換することだって、もはや、そんなことはないとは誰もまじめには思えない時代となった。

自己責任、という考え方がまかり通るのなら、自己をつぶさない節度が学校教育の具体的な実行者である教師には必要な態度であるだろう。

そういう点で、道徳教育は、まず政治家や行政の人間や教師たちに必要である、という考えには、まったく同意である。ついでに、教員養成に携わる人間たちも、自らの道徳心を反省すべきだろう。そういう人たちがまともに反省したら、とてもそんな仕事についておれるような人は少ないだろうが。

それをしなくてすむのが、今の学校教育を食い物にしている人たちの大半である。

陽明学者の一人でもあった大塩平八郎は、暴挙に出て、切腹して果てた。陽明学者だからそれも有りである。

「マノンレスコー」の作者は修道院の坊さんだし、「危険な関係」の作者は政治家だった。そういうことが有り得るほど日本の文化は成熟していない。いや、森鴎外は医療軍人の最高の地位にあって、自らの性について語っている。軍医としては日露戦争時の兵士に広がった病気の原因を誤診してしまったが。

そうなると、昭和から平成にかけて、まだ70年ほどの歴史しかないのに、学校教育は制度上、社会の激動のなかでボロボロになっているようなものでしかないことを、多くの人たちが気づくべきである。子どもたちも保護者も。

音楽や美術でも100年の歴史に耐えうるものは少ない。学校教育は芸術でも芸能でも美学でもない。それなのに流行に振り回される情けなさは、この国の未来を危ういものにする。

4年前のメルトダウンは過去のできごとではない。公害と同じように、想定内の人災であるにもかかわらず、誰も責任を取らないというのが、この国の自己責任の真相なのである。

資格があろうがなかろうが、問題点は発信しなければならない。その手立てを変えたいと考える。

異形というのは、中世の歴史研究でよく出る言葉だ。落伍者は、デカダンの同意語である。蘇るは、ルネサンスとも言える。

前の記事や態度が不快感を与えた方々もいるようであるが、言っていることは変わらない。しばらく再び、裏に棲むときを持ちたい。

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